執筆ノート:開発法学のフロンティア(松尾弘)

開発法学のフロンティア――政治・経済と法 執筆ノート

松尾 弘(慶應義塾大学教授)

この「執筆ノート」では、法学セミナー(以下、法セと略称)771号(2014年4月)から連載中の「開発法学のフロンティア――政治・経済と法」について、諸般の事情で誌面に盛り込むことができなかった論点の補足、関連する話題の提供、読者からの質問やコメントへの回答などを掲載します。

index
第1回 法整備は経済成長や民主化にどのような影響を与えるか (2014年4月号)
第2回 憲法とクー・デタの相克を抜け出す道はあるか (2014年5月号)
第3回 憲法制定への生みの苦しみ (2014年6月号)
第4回 政治・経済・法の好循環モデルは存在するか (2014年7月号)
第5回 日本社会の発展と法改革(1)――日本モデルの基層形成 (2014年8月号)
第6回 日本社会の発展と法改革(2)――日本モデルは何を語るか (2014年9月号)
第7回 韓国における法改革と経済・政治の発展 (2014年10月号)

第1回 法整備は経済成長や民主化にどのような影響を与えるか

○法的発展・経済的発展・政治的発展の相互関係
本連載は「法整備は経済成長や民主化などの生活の実質の向上に役立っているのだろうか」(法セ711号56頁)と問うことから出発した。これは、開発法学が経済成長、民主化等を通じて実感できる発展(development)を促す手段として、法の存在意義や機能を捉え、法整備の方法を探求するものだからである。しかし、そもそも法学は法制度それ自体をより良いものとすることを目指すものであり、それが経済や政治に与える影響は二の次の問題ではないか、それは開発法学でも同じではないのかという疑問が生じるに違いない。

たしかに、法にはそれ自体として評価すべき発展、すなわち、経済的発展(economic development)や政治的発展(political development)から独立した法的発展(legal development)というべきものがある。例えば、①各々の社会で必要とされる法が体系的に整備されて矛盾や欠缺ができるだけ少なくなること、そうした法が公開され、内容が明確で合理的で包括的であることは、それ自体が良いことであり、進歩であるといえる。また、②そうした法体系に従って多様な紛争を正義に適った仕方で解決すべく、公平な裁判を誰もが迅速に安価に受けることができ、その結果が確実に執行されること、そのために法制度を的確に運営することのできる裁判官、検察官、弁護士などの法律専門家が育成され、有能で信頼に足る存在となることも、法的発展の重要な側面である。さらに、③一般市民が法制度に関する情報を容易に安価に取得することができ、それに基づいて裁判所、その他の紛争解決機関をリーズナブルなコストで利用し、迅速な救済を得られること、政府の施政に対して不満を抱く民衆がそれを是正するために、法改革の要望を容易に表明し、それに理由があれば実際の改革に通じるルートが開かれており、反政府の暴動を起こす必要がないことなども、法制度それ自体の前進であり、法的発展にとって不可欠の側面である。

これらの法的発展は、それが何かの役に立つか否かということをひとまず度外視しても、誰もが望むものである。これらの諸側面からなる法的発展により、法は次第に完全性(integrity)を増してゆくということができる(注1)。そして、法的発展そのものを測定する指標についても開発が進んでいる。例えば、世界銀行(World Bank)が調査・公表している各国の統治指標(the Worldwide Governance Indicators)に含まれている法の支配(the Rule of Law)の指標(注2)、世界正義プロジェクト(World Justice Project)が調査・公表している法の支配指標(the Rule of Law Index)(注3)などは、その典型例である。このように、開発法学もまた法的発展、すなわち、法(制度)それ自体の発展を無視するものでないことは、最初に断わっておかなければならない。

では、それにもかかわらず、なぜ開発法学は法的発展の枠内にとどまらず、経済発展や政治発展との関係を問題にするのであろうか。それには主として2つの理由がある。1つは、法的発展――それは紛争の解決による満足感や納得、紛争の予防による安心感などの実質を含みうる――に加え、経済成長の果実や民主化の進展による自己実現といった経済的・政治的発展ももたらすことを通じ、発展の果実をより強く実感できるからである。

もう1つは、そのような法的発展は、一定程度の経済的・政治的発展によって初めて可能になったり、促されたりする面があるからである。例えば、十分な数の法曹を養成したり、一般市民の法的知識や法的判断能力を高めたりするためには、教育制度の充実が必要である。しかし、そのためには経済活動が活発になり、その結果として増大する税収により、まずは中央・地方の政府が主導して、教育制度を整えることが可能になる(注4)。

このように法的発展は経済的・政治的発展と概念的には識別可能である一方で、密接不可分に結びついているのである。

○政治と法
本稿は「政治に呑み込まれる法」(法セ711号56頁)、「法制度は政治制度から抜け出せるか」(同59頁)などで述べているように、政治と法が対抗関係ないし緊張関係にあるものと捉えている。本稿では「政治」とは強制力をもって国家を統治しようとする者の権力行使という意味で理解している。その際、「政治」を乱暴な力の行使のように否定的・批判的にみるものではないということを予めお断りしておきたい。より良い国家を構築し、統治するためには、中央集権化された権力が不可欠である。国家は開発の戦略を策定し、それを政策に具体化し、実現するために強制力を備える必要があるからである。それをさらに確実にするために、統一的な法をつくり、それを執行し、それに基づいて紛争を解決したりするうえでも強制力を必要とする。したがって、権力やその中央集権化自体は悪いことでも批判されるべきことでもない。問題は、権力の濫用や逸脱をどのようにコントロールすべきかであり、その有力な手段が法である。

○制度とは何か、なぜ制度が重要か
「経済・政治・法を結ぶものとしての制度の重要性」(法セ711号58頁)の冒頭で触れたように、本稿は国家における経済・政治・法の好循環を促すために、既存の制度(institution)を改革することが最も重要であると考えている。制度とは「各々の社会に厳然として存在し、刻一刻の人々の意思決定と行動に実際に影響を与えているルールの集合体であり、その下で生活し、活動する人々に絶えず様々なインセンティブ……を与えるものである」(同58頁)。制度はなぜ、どのように重要なのだろうか。

人々は毎日様々な思いを抱いて暮らしている。そして、社会の多くの人々が、挫折や落胆を繰り返しながらも、再び希望や目標をもって暮らしてゆけるか、およそ希望も目標ももてずに、生命や身体への危険、食べ物への不安、仕事への不満、政治家への不信、金持ちへの嫉みなどのストレスの中で暮らしているかは、労働に従事する人々のやる気、技術革新への意欲、協力行動への誘因等の相違を通じて、社会全体の生産量・所得・治安などの大きな違いとなって現れるに違いない。ひと言でいえば、国家が人々に努力や協力をする気にさせ、争いを予防または回避する気にさせるような制度を備えているかどうかが、そこに生きる人々の豊かさや幸福度に決定的な影響を与えている。

もっとも、そうであるとすれば、人々がお互いに他人の立場に立って少しだけ遠慮したり、配慮したり、優しくしたり、我慢したり、工夫したり、努力したり、協力したりすることにより、ほとんどの社会問題は解決するはずである。しかし、それがすべての人に適時に期待できないのが実際の社会でもある。そこで、社会の多くの人々に対し、ある時期に必要な、そうした協力行動へのインセンティブを、誰が、どのような仕組みを通じて与え、人々を誘導することができるか、そのための制度の違いが、豊かな国と貧しい国の違いを生む最大の鍵を握っている。

実際、私たちが毎日・毎月・毎年使えるお金の平均的な額、得られる物やサービスや情報の量と質、飲食できる物の種類や量や質、読み書きできる言語の有無や数、通える学校の有無や種類、受けられる教育の中身と費用、職業選択の可否や幅、就職先の数や得られる収入、怪我や病気の際に行ける病院の有無、数、医療の内容と費用、平均的な寿命、強盗や窃盗の危険やそれに備えるために必要な費用、事故や事件に巻き込まれた時に相談できる機関の有無・種類・数やその信頼度、図書館・その他の公共施設の有無や数、そこで得られるサービスの内容、弱者や高齢者が受けられる福祉サービスの質等々、私たちの生活の豊かさを形づくるこれらの要素は、自分がどの国家に属するかによって格段の相違がある。それらは、国境の海・湖・川を、時にはフェンス1枚を挟んで、地理的・自然的・民族的な条件が比較的近い社会の間においてすら存在する。

1)Amartya Sen, “What is the Role of Legal and Judicial Reform in the Development Process?,” World Bank Legal Review: Law, Equity, and Development, Vol. 2, 2006, pp. 33-49. センは、発展(development)の経済的・政治的・社会的・法的側面が相互に複雑な因果関係で繋がっており、それゆえに発展の意義やそのプロセスを包括的(comprehensive)に捉える必要性を強調する一方で、経済的発展や政治的発展から概念的に独立したものとして法的発展を捉え、評価することができることを示唆する。「『発展プロセスにおける法および司法制度改革の役割は何か?』という問いに答えるためには、われわれは少なくとも、法的発展が発展プロセスの本質的な構成要素として含まれているという基本的事実を認識することから始めなければならない。そして、概念的完全性は、われわれが法的発展を発展プロセスそれ自体にとって決定的に重要であるとみることを要求している。すなわち、たとえ法的発展が経済的発展にまったく貢献しなかったとしても(私はけっしてそうであるというのではなく,たとえ事実に反してそうであったとしてもということである)、法および司法制度改革は発展プロセスの決定的に重要な部分であろう。発展(development)の観念は法および司法制度の構成の仕方から概念的に引き離すことはできない」(ibid., p. 38)。
2)The World Bank Group, The Worldwide Governance Indicators, Rule of Law (http://info.worldbank.org/governance/wgi/index.aspx#home).
3)The World Justice Project, The Rule of Law Index 2014 (http://worldjusticeproject.org/rule-of-law-index).
4)Sen, op. cit. (n. 1), pp. 42-43.
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第2回 憲法とクー・デタの相克を抜け出す道はあるか

○反政府デモの頻発

現政権の失敗に対する批判手段としての反政府デモが、各地で頻発している。

バングラデシュでは、2014年1月の総選挙を前に、与党・アワミ連盟(AL)に対し、野党・バングラデシュ民族主義党(BNP)が、公正な選挙が実施される保証がないとして選挙不参加を表明し、ハシナ首相の辞任、中立的な選挙管理内閣の設置などを求め、各地でデモやゼネストが組織され、反政府暴動に発展した。2013年中だけでも250人を超える死者が出たと報道されている(注1)。バングラデシュは衣料品輸出が世界第2位(第1位は中国)となり、高い経済成長を維持してきた。しかし、ダッカ近郊の縫製工場が入ったビルの崩壊で1千人以上の死者を出したことによる外資系企業の撤退、工場点検に伴う生産調整、ストライキの頻発などによる物流の停滞や新規投資の差控えなどにより、政府は2014年度(2013年7月~2014年6月)のGDP成長率を7.2%から6%台へと下方修正した。

トルコでは、2014年3月12日、エルドアン首相に対する抗議デモが、アンカラ(首都)、イスタンブールなどの都市部で発生し、数万人が参加した(注2)。反政府デモはすでに2013年から起こっている。その直接の原因(契機)としては、エルドアン政権が2012年11月から進めているイスタンブール市内の再開発計画に対する反対運動を抑制したり、2013年5月に酒類の販売や飲酒場所の規制を強化する立法をしたりするなど、権威主義的傾向を強めていることが挙げられている。反政府勢力は一枚岩ではなく、世俗主義勢力、左翼勢力が中核となり、環境主義派、国家主義派、クルド人勢力なども加わっているとみられている。

○タイの政治状況――その後の動き
「今後の行方」(法セ712号56頁)に続くタイの政治状況は、以下のとおりである。

タイ政府は、2014年3月18日、バンコクおよび周辺地域を対象とする非常事態宣言を同年1月21日の発令から約2か月ぶりに解除した。すでに反政府デモ隊は同年3月2日に首都封鎖を解き、集会拠点をバンコク市内の公園に移していた。政府は、外資企業による投資、商業、観光業等、経済活動への悪影響を抑えるべく、60日間の期限前に解除を閣議決定した。

一方、タイ憲法裁判所は、反政府デモによる妨害の中で実施された総選挙(2014年2月2日)を無効と主張する訴えを受け、同年3月21日、これを無効とする判断を下した。先の総選挙は、反政府勢力の妨害により、一部の選挙区で候補者がなく、投票が実施できなかった投票所もあったことから、政府および選挙管理委員会はそれらの選挙区において再投票を行う準備をしていた。しかし、憲法裁判所は、そうした一部地域での再選挙は、同一日に総選挙を実施すべきことを定めている憲法規定に反することを理由に、選挙を無効と判断した。今後は、政府と選挙管理委員会が協議してやり直し選挙の日程を定め、首相の奏上に対して国王が承認することによって正式に決定される(注3)。

なお、憲法裁判所は、大型公共事業のために2兆バーツ(約6兆4千億円)の特別借入を行う法案に対し、違憲判決を下した(2014年3月12日)。これを受け、野党・民主党は、同法案を主導したインラック首相および閣僚を国家汚職追放委員会(NACC)に告発し、同委員会が上院に弾劾請求することを求めている。それが行われた場合には、内閣総辞職も予想される。タイの政治状況は今なお混沌としている。

1)日本経済新聞2013年12月27日6頁。
2)日本経済新聞2014年3月14日6頁。
3)日本経済新聞2014年3月20日6頁、同3月22日7頁。
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第3回 憲法制定への生みの苦しみ

○ネパールの経済成長率
(法セ713号69頁、左欄、下から11行目「経済成長」への補足)

ちなみに、ネパールにおける経済成長率をみると、内戦突入前は実質経済成長率が8%を超えることもあった(例えば、1994年は8.22%)。その後、内戦の勃発後により、実質経済成長率は不安定となり、0.12%(2002年)~6.12%(2010年)の間を乱高下した。2008年には6.11%に復活したが、その後約3~5%の間に落ち着いている(注1)。とりわけ、2009年以降はそれ以前よりも安定している。もっとも、3%代への低下(2011年3.42%、2013年3.65%)は、前制憲議会において任期延長が行われ、憲法制定を見通すことができない状況となったことが影響を与えているであろうか。

○行方不明者調査委員会、真実及び和解委員会を設置するための法案
(法セ713号65頁、左欄、本文の最終段落への補足)

2013年3月、政府(バッタライ首相〔ネパール統一共産党毛沢東主義派UCPN-M〕)は、1996年から2006年までの内戦中に行われた人権侵害ケースに対し、包括的な大赦を与える条項を含む「行方不明者の調査委員会」および「真実及び和解委員会」に関する法案を作成し、当時は制憲議会の消滅(解散)後であったために、これをヤダヴ大統領が暫定憲法上の権限に基づいて承認した。これに対し、同年4月、包括的大赦条項が暫定憲法に抵触することを理由に、確定判決まで施行の差止めを命じた。さらに、最高裁は2014年1月、同法案から強姦、殺人、誘拐、拉致などの重大犯罪者にも大赦を与える権利を行政に与える条項を削除するなど、国際規準に従った改正を指示する内容の判決を下した(注2)。

これを受け、政府は同法案を改めて作成する専門委員会を設置し、同委員会は2014年4月3日、新たな法案を国家復興省に提出した。その中では、①殺人などの重大犯罪に対しては恩赦を与えないこと、②恩赦を与える場合には被害者側の同意を要件とすることなどが提案された。

これに対し、UCPN-Mは同年4月5日の幹部会議で、それが過去の主要政党間の合意に反すると主張し、政府として同法案を受け入れないようコイララ首相に申し入れる方針をいったんは決めた。しかし、4月7日、制憲議会の主要3政党(NC、UML、UCPN-M)は、包括的和平協定の精神に基づき、「行方不明者調査委員会」および「真実及び和解委員会」の設置に合意し、4月9日、同法案は議会に提出された。もっとも、同法案は強姦のみを恩赦の対象とならない重大犯罪として特定した。これに対し、犠牲者の家族、人権活動家などから、それが先の最高裁判決に従っていないとの批判が出ている。UMLはどのような重大犯罪にも恩赦を与えるべきでないと主張するのに対し、NCとUCPN-Mは和解を重視する姿勢を示している。とりわけ、UCPN-Mのダハル議長は、紛争中のあらゆる犯罪が既存の法律に従って裁かれた場合、新たな紛争が始まると警告している。

内戦中の人権侵害行為に対しては、2006年11月の包括的和平協定において、半年以内の調査が約束されていたが、現在もまだ実施されていない。

○ネパールにおける憲法制定プロセスの特色とその背景
(法セ713号65頁、左欄、本文の最終段落への補足)

連載第3回のまとめとして、ネパールにおける王制廃止後の憲法制定プロセスの特色みると、連載第1回で取り上げたエジプトにおける大統領辞任後の憲法制定プロセスと比べ、既存の憲法上の手続によりえない法秩序の再構築という点では共通の課題に直面しているものの、その対応の仕方に少なからぬ相違が見出される。エジプトでは、憲法宣言による憲法停止・暫定憲法発布・憲法草案作成・国民投票が3年経たないうちに3回繰り返された。これに対し、ネパールでは、2007年1月に暫定憲法が発布されて1990年憲法が廃止された後、憲法草案が完成しないまま、7年以上が経過した。この間、ネパールでは、まずは2008年4月に制憲議会選挙が行われ、憲法草案の作成がスタートした。しかし、その完成前に制憲議会議員の任期延長、任期切れ(2012年5月)という想定外の事態に直面し、約9か月に及ぶ政治的混乱を経て、最高裁長官を首班とする選挙管理内閣の立ち上げ(2013年3月)、制憲議会議員の再選挙(同年11月)という前例のない手続を経て、2014年3月末になって、憲法草案づくりが再スタートした。この相違の原因がどこにあり、それをどのように評価するかということは、国づくり(nation building)のプロセスにおける法整備の役割ないしあり方を見出すことを目指している開発法学の観点から、貴重な考察材料を提供する。

エジプトの例では、比較的短期間のうちに憲法停止・暫定憲法発布・憲法草案作成・国民投票という手続を経て制定された憲法が、比較的容易に停止され、新たな憲法づくりが繰り返される傾向が見出される。この傾向は、連載第2回で取り上げたタイにおける法秩序の変遷にも見出される。これに対し、ネパールはそう簡単に憲法草案を策定して国民投票にかけるという方法を選択しなかった。むしろ、暫定憲法の発布の後に、暫定政府による憲法草案作成・国民投票の実施という直截的な方法によらず、制憲議会議員の選挙から始めただけでなく、政党間で主要な争点になるテーマ別の委員会を制憲議会に設置して憲法草案づくりを進めるといった方法に見出されるように、ルール作りのためのルール(メタ・ルール)を策定することから始め、より一層ルール志向の国づくりを行っているということができる。それは、長い目で見れば、そうした慎重な手続を経てつくられた憲法の拘束力を強め、法の支配の原理を浸透させることにおいて、より有利であるように思われる。

ネパール政府は、2014年3月18日、1年以内に新憲法を発布すること、なるべく早い時期に地方議会議員選挙を実施することを内容とする共通ミニマム・プログラムを発表した。また、同年3月13日に議会に提出されていた議会規則(法セ713号6頁参照)が、同月21日、ようやく制憲議会によって承認され、憲法草案づくりの再開に向けて一歩前進した。そして、3月28日には、2012年5月27日の経過をもって廃止ないし解散した前制憲議会に設置された11のテーマ委員会が作成したレポートを承認した。これにより、前制憲議会で合意されたことは承継され、残る作業はまだ合意されていなかった事項を特定し、合意を形成することである。2014年4月3日、制憲議会事務局は、2014年10月17日までに最初の憲法草案を作成し、2015年1月22日までに新憲法を発布するというスケジュールを作成し、翌4月4日、制憲議会はこのスケジュールを承認した。

もっとも、ネパールにおいてこうしたプロセス志向の法秩序づくりが行われている背景には、エジプトやタイ以上に権力が諸政党などの政治組織間に多極分散化し、その時々の政府がイニシアティブをとって憲法草案をつくることが容易でないという事情も存在する。こうした多元的な政治状況は、民主的な国づくりに有利なようにも見えるが、政治組織間の際限のない権力闘争の繰り返しという状況と表裏一体でもある。その最大の問題点であり、喫緊の課題は、権力の中央集権化をどのようにして実現するか、ということである。いったん政府の中央集権的権力を確立することなしには、たとえ政党間の妥協によって憲法および議会制定法が出来上がったとしても、それを解釈・適用し、執行することが困難である。権力の中央集権化と民主化はけっして矛盾するものではなく、どちらも必要なものである。

しかし、その両者に成功することは容易でない。権力の中央集権化は容易に絶対主義に堕してしまう一方、それをおそれて権力の分散状態が続くと法の浸透や執行が困難になる。これは、王制を廃止して連邦共和制に向かおうとするネパールが今まさに直面しているジレンマである。

1)IMF, World Economic Outlook Database(2013年10月版)に基づく資料(http://ecodb.net/country/NP/imf_growth.html)による(2014年4月21日アクセス)。
2)最高裁2014年1月2日判決。
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第4回 政治・経済・法の好循環モデルは存在するか

○イングランドにおいて早くから議会が形成された理由
(法セ714号003頁、右欄、16-19行目への補足)

イングランドにおいて早くから議会が形成された理由については、イングランドでは、国王による権力拡大、集権化のプロセス自体が、その絶対化の危険性を貴族や市民に察知させ、多元的な構成員からなる議会を通じてコントロールする必要性を感じさせ、それを具体化する方策を模索する動きに通じていったという見方がある。

「国家制度の中央集権化は多元化の初期的形態を求める動きをも喚起する。…バロンと地方エリートは、政治権力のさらなる中央集権化の流れと、そのプロセスを止める難しさに気づくと、集権化した権力の用途について発言権を求めるようになる。したがって、15世紀後半および16世紀のイングランドでは、王権への対抗勢力として議会を持ち、国家機能の一部を支配することに、そうしたグループがさらに力を注いだのだ」。Daron Acemoglu and James A. Robinson, Why Nations Fail: The Origins of Power, Prosperity, and Poverty, Brockman, Inc., 2012, pp. 186-187 (D・アセモグル=J・A・ロビンソン/鬼澤忍訳『国家はなぜ衰退するのか(上)』(早川書房、2013)256頁).

これは、いわば政治的多元主義の成立の逆接的な説明といえる。しかし、この説明のみでは、イングランドに議会が成立し、国王権力との対抗関係を築いていった理由が、あまりに歴史的偶然であったという印象を与える。実際、アセモグル=ロビンソンは、このような意味での「偶然」説をとっている(本文注14および該当本文参照)。しかし、はたしてそれだけで説明できるだろうかというのが、筆者の根本的な疑問である(本文3参照)。

○議会制定法=選挙法(1710年)による選挙要件
(法セ714号006頁、左欄、下から9行目への補足)

すでに1710年の議会制定法(選挙法)によれば、州選出議員の被選挙権は年価値600ポンド以上、都市選出議員の被選挙権は年価値300ポンド以上の土地所有者と規定されていた。その結果、議員は主として土地貴族とシティ出身者であり、ジェントリーは下院議員の3分の2を占めた。もっとも、名誉革命後は、ジェントリーの経済的利害関係はより複雑になっており、単純に議会を地主が支配していたということはできない。中村勝己『世界経済史』(講談社、1994)297頁。

○国王大権に対する法の優位をジェームズ1世に説いた裁判官エドワード・クック
(法セ714号4頁、左欄、下から18行目「法の支配の定着原因」の1つとしての「裁判官の役割」への補足)

1607年、国王禁止令状事件において、ジェームズ1世は、王権神授説に基づき、国王主権は法に優越することを主張した。これに対し、エドワード・クック(Edward Coke, 1522-1634)は、「王権も法の下にある。法の技法は法律家でないと分からないのだから、王の判断が法律家の判断に優先することはない」と主張した。これに対し、ジェームズ1世は、「王である余が法の下にあるとの発言は反逆罪に当たる」と迫った。これに答えてクックは、「国王といえども神と法の下にある」と反論した(注1)。

クックの最後の言は、ヘンリー・ブラクトン(Henry de Bracton, 1210-1268)の「王は人の下にあってはならない。しかし、国王といえども神と法の下にある。なぜなら、法が王をつくるからである」との言に由来するといわれる。ブラクトンはローマ法学者であり、『イングランドの法と慣習法』(De Legibus et Consuetudinibus Angliae)を編纂した。法と王との関係に関する先のブラクトンの言は、イタリア注釈学派のアーゾ・ポルティウス(Azo Portius, 1150?-1230? 『勅法彙纂集成』を著す)の影響を受けていると考えられている。アーゾは、皇帝の支配権に対するイタリア都市国家の独立を法理上根拠づけるために、法の源泉は人民の同意にあり、個々の人民は皇帝に立法を委ねたことから皇帝の下にあるものの、集合体としての人民は立法権を保持すると論じた(注2)。ローマ法が中世ローマ法学を介して、君主の立法権に関するイギリス法に影響を与えたことは、看過することができない。ちなみに、『学説彙纂』には「君主の好むところが法律の効力をもつ」(Ulpianus, Digesta 1.4.1)との法文(ウルピアヌスの見解)が収録されている。ウルピアヌスはまた、「君主は法律に拘束されない」(Princeps legibus ab solutus: Ulpianus D.1.3.31)とも述べている。もっとも、これらは皇帝が新たに即位する度に「命令権付与法」ないし「王法」(lex regia)によって皇帝が国家の利益のために必要なすべてのことを行いうる権力を皇帝に授与したローマ人の慣習的儀式に由来する。また、『学説彙纂』はすぐその後で、立法の権威は、慣習と同様に、人民の同意に由来するとの法文(Iulianus, D.1.3.32)を置いている。さらに、テオドシウス2世の勅法は、「皇帝は自ら法律に拘束されると宣言しなければならない。ならならば、皇帝の権威は法律に基づくものであり、法律に従うことが皇帝の権威の徴だからである」(C.1.14.4)と述べている(注3)。

ところで、クックは国王裁判所等の裁判官であるとともに、植民地の起業家でもあり、国王から専売特許を得た特権的商人による取引の独占に対し、新興市民階級の商取引の利益の拡大を擁護した(注4)。イギリスの経済発展プロセスにおいて法曹としてのクックが果たした役割を、ノース=トマスは極めて高く評価している。

「イングランドの統治に関する17世紀前半の歴史は、エドワード・クック卿の生涯と切っても切り離すことができない。コモン・ローが国の最高法(the supreme law of the land)であると主張し、繰り返しジェームズ1世の怒りを買ったのはクックであったし、1620年代に議会の反対派を率いたのもクックであった。このグループは、商取引法の発展に対するコモン・ローのコントロールを確保しようと考えていた。そして、最終的に、議会における反対勢力を率いたクックの指導性は、議会とコモン・ローとの同盟関係を固めることになるのである。

クックの貢献は、単にコモン・ローの優位の擁護に限られるものではなかった。彼はまた、コモン・ローが、君主の大権と結びついた独占的な特権を打壊すべきであると主張した。…」(注5) 。

ここからは、イギリスの経済発展プロセスにおいて法曹が裁判所、議会、国王への助言を通じて果たした役割を垣間見ることができる。

○ホッブズによるクック批判
(法セ714号007頁、右欄、本文の末尾への補足1)

なお、裁判官クック卿(Sir Edward Coke, 1552-1634)と法学者ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588-1679)との間には、コモン・ローの捉え方に相違があったことが注目される。ホッブズは『イングランドのコモン・ローをめぐる哲学者と法学徒との対話』(1681)の中で、「制定法に服従するのはなぜか」を問い、その論拠を探求することから対話を始めている。そして、リトルトン『土地法論』(1481-1482)とそれを注釈したクックの『イングランド法提要』(1628-1644)を「苦労しながら精出して読んでみた」結果、まずはクックが同書第1巻138節で「理性に反する法は、法にあらず、」「理性こそが法の生命である。しかりコモン・ローこそ理性に他ならない」と述べている点について、「賛成である」としている(注6)。しかし、さらにその内容に立ち入って、クックがそうした法は「多年にわたって積み重ねられてきた研究や考察・実務経験によって獲得された、人為的な理性の完成品」と捉えているとの法学徒の分析を踏まえ、同書138節には「どうも曖昧な点や誤りがあるように思えて、私にはいまひとつ納得できない」という。つまり、「なぜその理性が、自然理性〔人間の本性〕ではいけなくて、人為的理性でなければならないのか、そこのところがよくわからない」とする。そして、「思うにクックは、ある裁判官の理性や、国王を除いた裁判官全体の理性が、最高の法であり、それが法律そのものだと考えているようだが、その論には賛成しかねる」という。なぜなら、「法律を作るのは、立法権を有する人物〔主権者〕以外位にはない」からである。つまり、「法律を作成するのは知恵ではなく権威」である。この観点から、「法律は、謹厳実直にして学識豊かな人たちつまり法学のお偉いさんたちの手で純化されてきたものだ、と言いたいのであろうが、それは明らかに誤りである」と断じる。「先生は、おそらく制定法のことを指しておられると思いますが、私はコモン・ローについて述べているのです」という法学徒の確認に対し、哲学者の口から「いや、私が言っているのは、法一般についてのことだ」と述べ、コモン・ローも人間理性の産物であることを明確にしようとしている(注7)。

イギリスにおける法制度の変化と好循環の形成、および法の支配の定着原因に関して述べたように、イギリス法の担い手は、裁判官、法学者に限定されるものではなく、富裕農民、都市市民、さらには選挙法の改革を通じ、一般市民にも拡大していった。そうした法発展の担い手自体も多様化ないし多元化していた事実を看過することができない(注8)。

○イギリスにおける好循環の一環としての植民地の拡大
(法セ714号007頁、右欄、本文の末尾への補足2)

イギリス・モデルの含意  以上に概観したように、法・政治・経済の発展に関するイギリス・モデルは、けっして単純ではないが、深い含意を蔵している。国王権力とそれを抑制しようとするグループ(それも決して一枚岩ではなかった)との間の長きにわたる政治的な闘争・交渉・取引のプロセスを通じて獲得された議会の権限とその拡大、法学者や裁判官の活動を通じた「理性」(その意味をどのように捉えるかには議論があったが)を核心とするコモン・ローの観念の形成と普及、コモン・ローによる議会の統制、議会制定法による国王大権の抑制を通じて実現された諸規制の撤廃・緩和、裁判による市民の財産権の擁護、それらによって活発化した経済活動、技術革新、融資制度の発達、生産の増大、…。こうした経緯は、例えば、やはり国王権力と対抗勢力が長らく抗争を続けてきたネパールにとって、どのような意味をもちうるであろうか。

もっとも、以上に概観したイギリス・モデルもそのモデルのごく一部に言及できたに過ぎず、触れることのできなかった数多くの連鎖部分が残っている。第1に、18世紀後半から本格化したイギリスの経済発展は、多くの労働者を産み出し、新たに都市および農村における労働者問題への対処を不可避とし、改めて配分的正義の問題を生じさせた。しかし、イギリス・モデルの含意は、こうした国内の社会問題の発生に止まらない。第2に、イギリスにおける好循環の成立は、イギリスによる植民地の獲得・拡大・経営と深く結びついていた。それは経済システムの国際化・グローバル化の1つの端緒をなすものであり、現代における発展途上国の問題(発展問題)の一因にもなっている。植民地では、イギリス本国と同じ法の支配・政治システム・経済制度が保障されたわけではなかった。イギリス・モデルの含意を考えるときには、これらの要素も看過することができない。

○経済的発展とは何か

法・経済・政治の発展の諸側面の相互関係を探求し、包括的な発展の内実を明らかにするためには、法的発展、政治的発展に続いて、経済的発展の意義も確認しておく必要がある。経済的発展は経済学の根本問題である。それは国内総生産や国民所得の増大にとどまらない、社会全体の構造変革を意味するものであることに留意する必要がある。

浅沼信爾=小浜裕久『近代経済成長を求めて――開発経済学への招待』(勁草書房、2007)は、「一国の経済成長とは、その国民に多様な財を供給する能力が長期的に向上を続けることであり、その能力の向上は技術進歩とそれを支えるインスティテューションおよびイデオロギーの変革に依存する」というS・クズネッツによる経済成長の定義を引用して、このことを説明している(同8-12頁)。

そして、「経済発展とは、一国の経済・社会・政治、はては文化や思想にまでもかかわるすべてのインスティテューション(人々の行動様式も含めた制度)の変化・変革を伴う実に壮大な歴史的展開である。今日の一大課題である『貧困削減』や『環境保全』の問題に立ち向かうときに、経済社会の構造変動を考えず、いわばソーシアル・エンジニアリング的な政策的解決を求めるのが無意味である理由はここにある」。「経済発展という豊かさを求める行動は、まさにクズネッツがいうように、『制御された革命 (Controlled Revolution)』と呼ぶに値する一大社会変動である」と述べている(浅沼=小浜・前掲ⅲ頁、4頁)。

ここにも示唆されているように、第1に、経済発展は、人々が多様な財を獲得する能力を持続的に向上させるような技術進歩、政治・社会・取引システムの改革、思想の変革である。第2に、そうした経済発展は経済の面だけに着目していたのではけっして達成されない。こうして経済の面からみても、われわれは再び(三度)同じ帰結に到達する。すなわち、「発展」は経済の面だけ、あるいは政治や法の面だけで捉え、具体化することはできず、それらの相互作用を踏まえた包括的な制度改革によって初めて可能になるものである。このことが改めて確認できるであろう。

1)樋口範雄「Prohibitions del Roy (1607) 12 Co. Rep. 63, 77 Eng.Rep. 1342 (K. B.) 法の支配――国王の禁止令状事件」英米判例百選(第3版、1996)89頁。クックの法思想に関しては、石井幸三「コウクの法思想――イギリス近代法思想史研究(1)――」阪大法学92号(1974)35-91頁、深尾裕造「Artificial Reason考――ホッブズ-クック論争と近代法学の誕生――(1)~(3・完)」島大法学35巻4号(1992)255-293頁、36巻1号(1992)79-117頁、36巻3号(1992)77-156頁、戒能通弘『近代英米法思想の展開――ホッブズ=クック論争からリアリズム法学まで』(ミネルヴァ書房、2013)1-16頁参照。
2)ピーター・スタイン/屋敷二郎監訳/関良徳=藤本幸二訳『ローマ法とヨーロッパ』(ミネルヴァ書房、2003)78-79頁、83-84頁。
3)スタイン/屋敷監訳/関=藤本訳・前掲注2)77-78頁参照。
4)クックの生涯とその時々にクックが関与した事件、著作等に関しては、末延三次「サー・エドワード・コウク(一)~(六)」法学セミナー1956年4月号38-40頁、5月号40-43頁、6月号50-53頁、7月号50-53頁、9号38-41頁、1957年1月号42-45頁、堀部政男「サー・エドワード・クック(その1)~(その3)」法学セミナー1969年9月号127-123頁、10月号175-170頁、11月号96-91頁参照。
5)Douglass C. North and Robert P. Thomas, The Rise of the Western World, Cambridge University Press, 1973, pp. 147-148(D・C・ノース=R・P・トマス/速水融=穐本洋哉訳『西欧世界の勃興〔増補版〕』(ミネルヴァ書房、1994)200-202頁。なお、「慣習法」を「コモン・ロー」とする等,一部訳を変更した).
6)ホッブス/田中浩=重森臣広=新井明訳『哲学者と法学徒との対話 イングランドのコモン・ローをめぐる』(岩波文庫、2002)10頁。
7)ホッブズ/田中=重森=新井訳・前掲(注3)11-12頁。
8)ホッブズによるクックの法概念批判とその背景にあるホッブズの法思想に関しては、戒能通弘『近代英米法思想の展開――ホッブズ=クック論争からリアリズム法学まで』(ミネルヴァ書房、2013)17-38頁参照。

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第5回 日本社会の発展と法改革(1)――日本モデルの基層形成

○「長州ファイブ」
(法セ715号84頁、左欄【ポイント】の関連情報)
1863年、イギリスに密航した「長州ファイブ」(井上馨、伊藤博文、野村弥吉(井上勝)、山尾庸三)の逸話は、五十嵐匠監督「長州ファイブ」(2006年)に映画化されている。

○漸次的立憲体制の構築
(法セ715号87頁、左欄「中央集権化の徹底」第1段落4行目「立憲政体の詔書」の補足)
1875年4月14日、明治天皇は立憲政体の詔書を発し、立法部としての元老院、司法部としての大審院等を設置し、「漸次ニ国家立憲ノ政体ヲ立」てることを宣言した。また、内閣制度は、1885年12月22日、五箇条の御誓文で設けられた太政官制度を廃して創設された(①太政大臣・左右大臣・参議および各省卿の職制を廃し、新たに内閣総理大臣、宮内・外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・農商務・逓信の各大臣を置き、②内閣総理大臣および各大臣(宮内大臣を除く)をもって内閣を組織するものとされた)。
このように、現在の日本の立憲的政治構造の骨格を形づくる最初期のプロセスでは、憲法制定に先行して、立法部・司法部・行政部が分化し、すでに活動と実績を蓄積していたのである。こうした立憲主義への漸進的改革のプロセスを経て、憲法制定のための暗黙のルールとしての慣行が形成され、それを前提に旧憲法が公布(1889年)・施行(1890年)され、効力をもったものと考えられる。

○発展の目標としての「近代化」の理念:経済・政治・社会・文化・法の近代化
(法セ715号88頁、左欄「産業革命と経済成長」に補足)
富永健一氏は、広義の社会システムを①経済、②政治、③(狭義の)社会、④(狭義の)文化の4つのサブシステムからなるものと捉え、その各々について近代化の指標を具体化している。それによれば、近代化とは、①経済サブシステムにおける経済活動が自律的で効率的な組織によって運営されることによる「近代経済成長」の達成、②政治的サブシステムにおいて政治的意思決定が「大衆的レベルにおいて民主主義的基盤の上に乗るようになり」、その実行が専門化された官僚組織によって担われるようになること、③社会システムにおいて社会集団が機能的に分化した目的組織として、親族集団から分離し、地域社会が閉鎖的な「村落ゲマインシャフト」から開放的な「地域ゲゼルシャフト」に移行すること、④文化サブシステムにおいて科学・技術が自律的に進歩するシステムが社会システムにビルトインされるように制度化され、教育の普及によって迷信・呪術・因習等の「非合理的な文化要素」の占める余地が小さくなってゆくことを意味する(注1)。
このうち、①経済的近代化、すなわち、近代経済成長をもたらす要因として、自律的で効率的な組織によって経済活動が運営されることが「産業化」と捉えられている。そして、日本では伝統的に産業主義、資本主義の精神が欠如していたが、「西洋からの文化伝播の産物」としての産業主義を輸入し、「西洋文化に固有な功利主義的個人主義を切り離して、これを国家目標として位置付けることによって自国の伝統文化と巧みに接合した」と分析する。そして、日本の産業革命は「日清戦争・日露戦争・第1次世界大戦を含む1880年代後半から1920年頃までの時期に、急速に達成され得た」との見方を示している。
他方、⑤近代化は「法」についても語られてきた。1950年代から60年代の最初期の法と開発(Law and Development)は、発展途上国において「近代法」(modern law)が発展することが経済成長や民主化をもたらすものと信じ、それゆえに(他国へも移植可能な)「近代法の中核観念」(the core conception of modern law)とは何かを探求することが法と開発研究の中心課題をなすものと考えた。D・トゥルーベックはこのことを前提にしたうえで、それが「1つのタイプの法――西洋において見出されるそれ――こそが第三世界の経済的、政治的および社会的発展にとって本質的であると主張することにより、法と開発研究の方向性を誤ってきた」ことを論証しようとしたのである。その際、「近代法」とは、①一般原則からなるルールの体系であり、②ある社会的目的を達成するための道具であり、③国家システムの一部である、という3つの特色によって捉えている。トゥルーベックは、こうした法観念が西洋史からの自民族中心主義的で進化論者的な一般化に由来するとして、と批判的にみている(注2)。また、トゥルーベックのかつての盟友、M・ギャランターも、①統一的・不変的・普遍的なルールである、②修正可能な合理的システムであり、③国家権力と結びついているという類似の捉え方をしている(注3)。
近代法ないし法の近代化を当然のように《良いもの》とみる観念は、すでにトゥルーベック自身が西洋中心主義であるとして自己批判している。そして、近年の多文化主義ないし法多元主義の下では、ますますその地位を低下させているようにもみえる。はたして、近代化は色褪せ、葬り去られた過去の理念なのだろうか。今その普遍性と根拠について再考してみる時であるように思われる。

1)富永健一『日本の近代化と社会変動』(講談社、1990)30-31頁。
2)デービッド・M・トゥルーベック/松尾弘訳「法の社会理論へ向けて――法と開発研究に関する小論」慶應法学15=16合併号(2010)276-279頁。
3)その詳細に関しては、松尾弘『開発法学の基礎理論――良い統治のための法律学』(勁草書房、2012)149-152頁。

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第6回 日本社会の発展と法改革(2)――日本モデルは何を語るか

○日本の政治・法発展と経済発展との関係に関するアセモグル=ロビンソンの分析
(法セ716号056頁、右欄、「殖産興業政策と法政策」第1段落の末尾に補足)

アセモグル=ロビンソンもまた、日本の経済発展プロセスで大久保利通が果たした役割に注目している。そして、「薩摩藩の指導者たちは、経済成長を――ことによると日本の存続さえ――実現するには、制度を改革するしかないことを認識」しており、彼らが主導した明治政府による法制度改革が、日本の産業革命を可能にしたとみている(注1)。

○産業化を促すための法改革
(法セ716号057頁、左欄、「殖産興業政策と法改革」続きの末尾に追加)

さらに、後にみる民法典(1896年・1898年)および商法典(1899年)の制定の後も、産業化の進展に伴い、企業の資金調達を促進すべく、1905年に鉄道抵当法・工場抵当法・鉱業抵当法・担保付社債信託法等が制定された。

○法典編纂と条約改正
(法セ716号057頁、左欄、「法典編纂」第1段落に補足)

条約改正交渉は、①治外法権の撤廃、②関税自主権の回復を軸に、1871年に開始された。井上馨は、②税権の回復には触れずに関税率の引き下げを試みる一方、①治外法権を全廃する代償として、内地解放(内地雑居承認)、外人関係の裁判は外人法官が多数を占める日本の法廷で行い、西洋流の法典を整えて外国に通達するとの改正案を策定し、1885年5月から条約改正会議に臨んだ。しかし、同改正案に対しては、ボアソナード、谷干城らが、外国による司法権、立法権の侵害を認めるものであると批判し、市民の反対運動もあり、交渉は中止された。1888年、大隈重信が、①治外法権廃止のために内地解放、外人法官の大審院への任用、法典制定の予約を条件に交渉を再開したが、外人法官の任用と法典予約に対しては国権派と旧自由党系諸派の双方が大同団結して反対運動を起こし、1889年10月には国権派の爆破事件により、大隈が片脚を失って交渉は断絶した。青木周蔵、榎本武揚外相を経て、陸奥宗光外相が1893年7月から対英交渉に入り、1894年7月、①治外法権廃止、②税権には触れない、③内地解放、④批准後5年経過によって発効という条件で調印した。その後、イギリス以外の各国と同様の条約を締結した。しかし、②税権の回復は、1901年の条約改正によってようやく達成された(注2)。

○民法(商法)典論争の原因と意義
(法セ716号057頁、右欄、「法典編纂」続きの第2段落に補足)

民法典・商法典施行延期論争の原因は単一ではなく、複数の事情が同時存在し、かつ複雑に絡み合っている。すなわち、①延期論を唱えたイギリス法学派(前記「法典編纂ニ関スル意見書」を発表)とフランス法学派の対立、②歴史法学的立場と自然法学的立場の争い、③伝統的半封建主義と進歩的自由主義とのイデオロギー対立、④在野派と藩閥政府との政争、⑤国家主義と個人主義の対立(注3)、⑥イギリス法、フランス法への着目から、ドイツ法学への傾斜等、様々な組織・レベル間の対立・緊張の存在が指摘されている。例えば、⑤に関し、争点の1つとなった民法典施行が社会・経済に及ぼす影響に関し、延期派は、旧民法の「個人本位」の構成を批判し、「個人主義」・「(一個人ノ絶対的私)権利」・「契約ノ自由」が弱肉強食の弊害をもたらすことを強調した(穂積八束=江木衷ほか「法典実施延期意見」)のに対し、断行派は、「弱者ヲシテ権利ヲ防衛スルコト能ハザルニ至ラシメタルハ…皆法律ノ不備不完ニシテ権義ヲ明カニシ信用ヲ保護スルニ足ラザルニ職由スルニ非ズヤ」(和仏法律学校「法典実施断行意見」)と応酬した(注4)。また、⑥に関し、ドイツ人K・ロエスレルは、フランス法流の民法を日本に導入することは財産上の混乱や社会的不安をもたらすとして、批判的意見を述べていた(注5)。何れにせよ、法典論争から引き出しうる教訓は、国民自身の熱望によるのでなければ、実際に遵守される法は形成されえないということではなかろうか。

○明治維新以後の法改革――日本における近代法の発達
(法セ716号058頁、左欄、「地主・小作関係の形成と法改革」第2段落の末尾)

明治維新以後の日本の法改革の歴史は、「日本法の近代化のプロセス」という観点から捉えることができる(「近代化」・「近代法」の意味については、本執筆ノート第5回第3項目参照)。この間の法改革は、様々な観点から区分することができる。例えば、①旧慣との調整を含め、法改革の方針を模索していた時期(明治維新から1870年頃)、②自由主義的な法改革理念が主流化した時期(1870年頃から1880年代半ば)、③開発国家的経済政策の浸透、自由民権運動の抑制に伴い、国家主義的法思想の傾向が強まった時期(1880年代後半以降)、④第2次大戦の敗戦を契機に、自由主義的かつ民主主義的法改革の必要性が再認識された時期(1945年以降)という変化があったように思われる。

しかし、この観点から重要な研究として、鵜飼信成=福島正夫=川島武宜=辻清明責任編集『日本近代法発達史講座』(勁草書房、1958~1967年)を看過することができない。同講座は、明治維新から第2次大戦終結に至るまでの日本法の発展を、①法体制準備期(明治維新~明治21〔1888〕年)、②法体制確立期(明治22〔1889〕年~大正3〔1914〕年)、③法体制再編期(大正4〔1915〕年~昭和6〔1931〕年)、④法体制崩壊期(昭和7〔1932〕年~昭和20〔1945〕年)の4期に区分し、経済・政治・社会の動向と法改革の関係および諸法分野間の関係に留意して検討している。同研究は、制定法の解釈を中心とする伝統的な法律学と並んで、それとは別の対象と方法に基づく法律の研究の必要性を説いている。

「法律学は伝統的に、裁判所における法規範の論理的構造の究明に、その努力を集中した。特に、明治になってからにわかに且つ大規模に西洋の法律制度を輸入しなければならなかったという特殊事情のゆえに、法律学は制定法の解説や解釈に努力した。そのような法律学が大きな役割をはたしたことは言うまでもない。しかし、法律に関する研究が、このような対象と方法とにのみ限局されねばならぬ理由はない。経済・政治・社会の諸現象との関連において法現象の構造と機能とを分析するというしごとは、もっとも強力な社会統制の手段としての法を理解するために必要である。特に、後進資本主義国の常として法律をてことして資本主義経済の発足と推進とを行わなければならなかった近代日本にとっては、法の演じた役割はきわめて大きく、またその政治権力の特殊の構造からも法の演じた役割は特殊のものとならざるを得なかったのであり、経済および政治との関連において日本の近代法を究明することは、日本の近代史研究にとって欠くことのできない重要課題である。」(注6)

法の構造と機能の発展過程を、法の変化と経済・政治・社会の変化との相互作用の帰結として捉える同講座の視座は、開発法学の問題意識の一半と重なり合う。同講座は、明治維新から第2次大戦敗戦に至る約80年間の日本の国家法の構造と機能を、明治維新以来の日本の経済構造(「一種独特の構造をもった資本主義経済」)の急激な変化、それに対応して変化した政治的権力関係(「特殊な構造をもった政治権力」の成立)、およびそれらに対応する国民の社会生活と社会思想の著しい変化という「諸条件の総決算」として捉えている。すなわち、「法は、これら諸条件の総決算として、なかんずく経済的諸利害とそれを代表する政治的諸力との総決算として現われ、政府権力の強制機構を伴って国民生活に大きな力を及ぼした」(注7)とみている。開発法学は、このような分析結果に基づいて、法が経済・政治・社会に作用する(時には一定の戦略的・政策的企図をもって働きかける)側面を探求するものである。

他方、川口由彦『日本近代法制史』(新世社、1998年)は、同じく明治維新から太平洋戦争の終結までの日本法制史について、「近代法」を再編・修正するものとしての「現代法」の時期を追加することにより、以下のような時期区分を採用している(注8)。

①維新法期(1868~1879年)。「近代法」形成以前に、幕藩体制下の法とも異なる、独特の法令群が乱舞した時期。
②近代法期(1880~1904年)。「近代法」は、資本主義的生産関係を基幹とする「社会」と、その円滑な活動を保障する「国家」を維持してゆくために作成され、直接的強制力によって最終的に担保される社会規範システムであると捉えている。その結果、近代法の中核要素は、私的所有と交換を媒介する法規群(法的人格、所有権、契約等)、およびそれらによって形成される「私的自治」の世界を外的に保障する国家に関わる法規群とみる。

近代法期は、1)第1期(1880~1884年:日本最初の近代法典である(旧)刑法典の制定、行政法的な租税徴収と民事法的な土地所有権確認との分離等、近代法の形成が本格化した時期)、2)第2期(1885~1895年:法典編纂事業の本格化)、3)第3期(1896~1904年:近代法典の体系完備、私的所有者の意思が政党、そして議会を通じて国家に取り込まれる契機が生まれた時期)に細分される。

③現代法期(1905~1945年)。私的所有権・契約を法的基礎とした資本主義法体制を前提にしつつ、私人からなる「社会」に「国家」が直接的かつ系統的に介入してゆく法状態に着目し、それがすでに太平洋戦争の敗戦前から始まっていたとみる。

現代法期は、1)第1期(1905~1917年:日露戦争の勝利により、日本が帝国主義へと急速に変貌するとともに、西欧型国家像と異なる、「家族国家」観を強調した、強力な統合力をもつ統治システムの構築が開始された時期)、2)第2期(1918~1930年:労使関係、地主・小作関係、借地借家関係等、「社会」内部の利害対立が激化し、「国家」に対する大衆の不満と要求が噴出する時期)、3)第3期(1931~1945年:戦時体制の漸次的構築、それに伴う「国家」による民衆統制が強力に展開する時期)に細分される。

こうしてみると、日本の法発展の歴史において「近代法」をどうみるか、それと不可分の問題として、近代法の修正としての「現代法」をどのように捉え、その開始時点を何時とみるか